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水の価値

海外旅行に行くと何が一番恋しくなりますか?
私は、スウェーデンの水が恋しくなります。なんの臭みもなく喉越し爽やかな水道水は、冬場は特に氷水のように冷たくてスッキリ飲みやすい。シャワーを浴びると気づく肌触りの良さも最高です。水道局の回し者ではありませんが、スウェーデンに住んでいてありがたいことの一つが水の豊かさです。

スウェーデンでは、賃貸住宅の家賃に水道代が含まれていますし、マンションを購入した場合も管理費のようなものに含まれています。つまり水をたくさん使おうが使わなかろうが、個人の水道代は変わりません。実際、水道代がいくらなのかを分かっている人は少ないと思います。「水を大切に」と教えられる日本と違って、スウェーデンに住む人たちの水の使い方は富豪のようです。スウェーデン人の夫が食器洗いに使う水の量は、きっと私の5倍以上だと思います。私は日本で育ったので、いまだに水を出しっぱなしにする行為に後ろめたさがありますが、彼らは蛇口から水が勢いよく出る音が何分続こうと、心地よく聞いていられるようです。100平方メートル以上あるガラス工房を掃除するときも、2時間以上もホースで水を出しっぱなしにして、コンクリートの床を掃除します。最初は少し悪いことをした気分になっていましたが、最近は慣れてきてだいぶ躊躇がなくなりました。

水道水が美味しいので、家庭ではウォーターサーバーではなく、炭酸水メーカーを使う人が多いです。カフェやレストランでは水道水をそのまま出すのを申し訳ないと思うのか、ミント、レモン、ライムにとどまらず、にんじん、キュウリ、スイカなどをピッチャーに入れている店もあります。クリアガラスの中のほんのり色づいた水は、どことなく気取って見えます。

湖畔や海辺にはいくつもサウナが建っていて、体を温めたら、湖や海に飛び込んで汗を流します。湖の水は綺麗だし、海水も塩分濃度が低いためベタつかず、磯の香りもほとんどしません。私も夏のガラス制作の日は、家に帰る前に湖で泳いで汗を流すことがあります。

水が余るほどある生活では、うっかり、そのありがたさを忘れてしまいそうです。そろそろ水の価値を噛み締めるためにも旅に出たいものです。

(『暮しの手帖』第5世紀15号)

広場のクルミの木

私の家の近くの広場の一番手前にクルミの木があります。「一番手前」というのは、私基準の話で、私の家から駅に向かって歩いて行った時の「一番手前」です。スウェーデンの短い夏の間に、青々としてぷっくり太った毛深い実をつけます。「あのクルミが食べごろになったら取って食べようね」と食いしん坊の息子は広場を通る度に狙っています。でも結局毎年3日間ほどしかない秋が来て、焦って葉と実を落としたのか、気づいた時には誰かが広場を掃除してしまって、枝だけを伸ばした冬仕様のクルミの木になってしまいます。

ここだけの話、私、その焦っているクルミの木に出くわしたことがあります。ストックホルムからコペンハーゲンへ電車で向かうため、ある晩夏の朝5時、小さなスーツケースに荷物を入れて、焦って家を出た時です。広場からガサガサ音が聞こえました。朝から掃除でもしているのかと思ったら、ビックリ!!クルミの木が寒さに焦って慌てて豪快に葉を落としていました。広場にはクルミの木と私しかいません。こちらも負けじと慌ててカメラを手に取り、録画。3分の間に全ての葉を落としました。こんなに晴天なのに、肌寒いからってこんなことある?!と焦りすぎているクルミの木に大はしゃぎ。その当時、インスタグラムがあったら絶対投稿していたであろう動画が今どこにあるのかはわかりませんが、私はなんだか広場のクルミの木の秘密を知ってしまったような得した気分で駅まで猛ダッシュしました。そして電車にギリギリ間に合わず。クルミの木に時間を取ってしまったことを少し後悔しながら、ゆっくり南へ進む電車を目の前で見送りました。そして、チケットを買い直し、1ヶ月前に2500円で買えた片道のチケットが、当日購入すると25000円で10倍になるということを学びました。

(『月刊はなすけ』2021年9月号)

秘めた愛情

乳児院で働く母は、私の母であり、私だけの母ではありませんでした。母は、私を産んだ6週間後に仕事に復帰。私は、母が仕事の間は日勤・夜勤に関係なく、祖父母の家に預けられ、100%粉ミルクで育ったそうです。七五三や卒業式、成人式など私の人生の節目節目で、母は、「あなたと同い年のあの子たちも今頃お祝いしているかしら?」と口に出すことがあります。幼い頃の私は、母や母の同僚たちの話を小耳に挟むたび、大勢の人から愛情をたくさん注がれる、会ったこともない「あの子たち」は、きっと私以上に楽しく過ごしているだろうと想像をしていました。もしかしたら、ほんの少しの嫉妬心があったのかもしれません。母が乳児院の話をするたび、淡く黄色みがかった暖かい朝日のような光を浴びた子供たちの笑った口元を、頭の中にいつも思い描いていました。ある時母は、乳児院の子供たちとは、別れたら二度と会えないのだと私に言い切りました。里親が決まった子は名前が変わることもあるし、3歳前の記憶がおぼろで、母たちを覚えていないかもしれません。
母の担当した子供たちが2〜3歳になり、乳児院から児童養護施設に移るお別れの日は、「ママ〜、ママ〜」と駅で泣き叫んで母たちの元へ戻ろうとする子を、笑顔で見送ることしか院の職員にはできなかったそうです。
児童養護施設を訪れた際に、少し大きくなった乳児院出身の子供たちを見かけたこともあったそうですが、声をかけてはいけない決まりだったそうです。「今幸せに生活しているのに、乳児院の職員が気安くあの子たちに近づくことは許されていない」と、本当の所はわからないけど、母は私にそう言いました。
これは少し後で知ったことですが、私が6歳の時、大きな手術をすることになった母は、母の一番上のお姉さんに、もしもの時は、私と弟の面倒を見てほしい、私たちを施設に入れないでほしいと頼んだそうです。「お姉さんは施設に入れないと約束してくれて、優しい人なのよ」と母から聞いた時、母が乳児院の子供たちへどんなに愛情を注いでいたかを知っていた私は、施設では極上の幸せが待っていると思っていたので、すごく不思議に思いました。しかし、それ故に子供たちも母たちも辛い思いをしたのだろうと、今なら少し分かる気もします。
最近、夫とこの話になり「じゃあ、君も乳児院からの養子なの?」と聞かれました。もしかしたら、私が思い出せない方たちが、今日もどこかでひっそりと私を思ってくれているのかも。

(『暮しの手帖』第5世紀13号)

ロマンチック過多

ガラス作家仲間のチャーリーはとても優しくて気も合い、気づけば20年の付き合いになります。恋人同士ではないお陰で、彼の根っからのロマンチスト気質は、時折私を穏やかな気持ちにさせてくれます。夜、酔っ払って二人で歩いている時に月を見つけると決まって素敵だと言うところも、久しぶりに会うと「スウィートハート」と呼んでほっぺにキスをしてハグをしてくれることも、恋をすると必ずジョン・ポール・ヤングの「Love Is In The Air」のレコードをかけることも、笑って許せてしまいます。

でも、計画性のないチャーリーにタイミング悪くロマンチックが加わると、あとで笑い話になると分かっていながらイラついてしまうこともあります。彼が、ロンドン市内からガトウィック空港に車で送ってくれた時、所要時間を間違え、さらに道に迷い、私は飛行機を乗り過ごしました。降雨量と見合っていないワイパーのスピードが、焦るチャーリーの心情を伝えていました。「空港には何度も行ったことがあるから大丈夫」という昨晩の彼の言葉を計画性がないことを知っていながら、なぜ鵜呑みにしたのかと反省しながら、次の飛行機の激高チケットを買い直し、空港で5時間待ち決定。彼が「落ち着いて」と言ってウィンクしながら出した鈍い色のホワイトコーヒーが、せめてブラックだったらどんなに良かったか。

ガラスの共同制作日を忘れて工房に現れなかった次の日は、罪滅ぼしに決まってカサブランカの花束を持ってやって来ます。そしてガラスを吹いている私をチラリと見ながら、そこらへんにある誰かが作った不出来な花瓶にその花束を生けて去っていきます。白いカサブランカは、ガラス工房の熱で蒸されてむせ返るように香ります。誕生日や展覧会のオープニングに彼がくれるカサブランカとは違う、汗にべったりと付く匂いです。チャーリーが置いていったカサブランカは、大学院卒業の時に私らしい花として先生たちがくれた、北欧の夏を代表する白い霞草とも、日本文化を知らない息子が母の日にくれる白い菊とも違う、無垢な善意を持って非現実的なほど白く輝き、ロマンチックが過ぎて脱力してしまうのです。

ここに書くにあたり、チャーリーに、あなたについて書かせてもらうよ、と確認をとりました。「何を書くの?」と聞かれたので、「ホワイトコーヒーとカサブランカの嫌がらせ」と言うと、彼は私を見ずに微笑んで、「ラブレターだね」と言いました。何事も捉え方は人それぞれ、というお話です。

(『暮しの手帖』第5世紀12号)

父のスーツ

思春期になった頃から、父がいつもダブルのスーツを着ていることを恥ずかしく思うようになりました。スラックスの裾もダブルが好みで、靴を履いた時に甲の上にバランスよくたるみが出るか出ないかで長い時間テーラーを困らせていたのを何度か目撃しました。休みの日でも子供の行きたいところに連れて行くのではなく、自分のスーツを仕立てるのに子供を付き合わせたりしました。

私が大学4年生になったある時、今度のスーツは明るい灰色にしようかな、と父が言いました。今まで父からスーツの色を相談されたことなどなかったので、このチャンスを逃すまいと「シングルのスーツを作ったら?」と伝えました。1着ぐらい持っていてもいいかな、と父の気持ちが傾いたことにホッと一安心して、生地を見せてもらい、中に合わせるものは何色にしようかと盛り上がりました。私は、父にはワインレッドが似合うのではないかと言いました。もしかしたら、「薄いピンク」とも言ったかもしれませんが、それはその後、心の中で思っていたことかもしれません。スーツが出来上がるまでにワインレッドのTシャツを探しておくことを、父と約束しました。
それから少し経ち、父が病に倒れました。余命宣告を受けたのですが、母は父にそれを言わない事にしました。2週間の昏睡状態の末、目を覚ました父は「もうすぐスーツが出来上がってくるから例のワインレッドを探しておいてよ」と言いました。私は、父が今晩にでも亡くなってしまうかもしれないことを知っています。数値がとても悪いし、集中治療室の2つしかないベッドの隣人は何度も変わっています。「24時間面会可能」なんてただ事じゃなくて、Tシャツの心配などしている暇はありませんでした。父が自分の死を予期していたかは分かりませんが、私は知らないふりをしてその後何週間かを過ごしました。
父が亡くなって、棺に入った死に装束の父の上に、楽しみにしていたからと、出来上がったばかりで一度も袖を通すことのなかった灰色のスーツを掛けて見送ることになった時、しまった!と思いました。そのスーツには「ワインレッド」と二人で決めていたからです。葬儀屋さんの準備が終わり、Tシャツを用意できなかったことを後悔しながら棺を覗き込むと、敷き詰められた白い胡蝶蘭の中に横たわる父に、灰色の立ち襟のスーツが掛かっていました。え?立ち襟!?と迂闊にも噴き出してしまいました。ワインレッドのTシャツを中に着ても見えないし!どのタイミングで立ち襟になったのか、謎だけが残りました。そんなことから、私はワインレッドのTシャツを来ている人を見ると、つい頬が緩んでしまうのです。

(『暮しの手帖』第5世紀10号)

あの冬の日常

初めての冬でした。ガラス制作の修行のために渡った南スウェーデンの冬は、日照時間が極端に短く曇りがち。カラッと晴れることは少ないのですが、晴れた日の夜空には星がたくさん出て、どの星が何座なのかを見分けることができないほどでした。一瞬で消える流れ星や、地球の周りを一定速度で回る人口衛星も見えました。開放的で自由で、またとてつもなく孤独で、宇宙空間に放り出されたらこんな気持ちになるのかも、と背中に恐怖も感じました。

3年間の修行中、クリスマス休暇に一度、ノルウェーの友人を訪ねて極夜の北極圏に3週間滞在しました。その時に見た黄色、緑色に揺れるオーロラはかすかな音とともに私たちの上を流れていきました。「音がする!」とぼそっと発した自分の声がオーロラの音をかき消しました。友人が赤やピンクのオーロラはなかなか出ないと教えてくれて、どんな色だろうと頭に描いた映像が静止画だったのを、今でもたまに思い出します。今思えばその年はオーロラの当たり年だったのかもしれませんが、私は毎晩のように現れる白や黄色、緑色の「いつものオーロラ」を、滞在2週目には虹よりも雑に扱っていました。オーロラに慣れている地元民たちも「オーロラが出ているよ」とは教えてくれなり、オーロラが話に出ることもなくなりました。

その後、南スウェーデンの暗い冬にすっかり慣れた私が、ある日の夕飯の後、だらだらと長居した友人の家からいつものように森を抜けて帰宅した時のことです。街灯もなく雪も積もっていない真っ暗な抜け道を、何度も通った感覚だけで歩きました。ほんの少しだけ酔っ払って。空にうっすら小さな月が出ていたのが少しの救いです。かすれた濃い灰色の空に、真っ黒な針葉樹がざわざわと風に揺れています。足元にはボソボソとした少し湿った黒い土。左手に広がる湖の水面はぬめぬめとメタリックに黒く動いて、対岸の黒い針葉樹の幹の奥には、吸い込まれそうな、もっと深い黒が広がっています。初めての冬に感じた恐怖はもうありませんでした。孤独ではありましたが、開放感や自由を感じることもありませんでした。

去年の冬、暗くならない東京でこの感情を表現したくて、黒いガラスの作品を発表しました。自分で調合した黒ガラスに、愛おしさと、もう二度と作れないという、なんとも表現できない複雑な感情が湧き上がりました。

あの南スウェーデンの「いつもの抜け道」は、舗装されて開けた土地になりましたが、私の脳裏にたまに浮かぶ映像は、今もたくさんの感触と音で賑わっています。

(『暮しの手帖』第5世紀9号)

PEOPLED VOIDS | PARODIC VOIDS

In Japan they call it Swedish design and in Sweden they call it Japanese design, even though it is the same works that are being shown. At same time gallerists call it “products” while retail stores call it “artworks”. It seems like there is no territory for selling works that lack a territorial designation. An artist around 40 years old: not a “young artist” any more, but no “senior artist” either. You feel that you stand out as Swedish when you are in Japan, and that you stand out as Japanese when you are in Sweden, but you cannot disappear into the anonymity of generality anywhere. That feeling of being part of a generality, a non-territorial experience hidden behind a territorial mask, has some allure. When definitively lost it gives you a small complex, but you soon get used to it.
There is no need to go looking for identity in the words of society or to feel let down when those words are not sufficient. And there is also no need to believe that the creative act of rectification, where a person or group ingeniously names and defines their circumstances, activities, visions and aims, is a site where identity is to be found. But what is non-territorial here? The word that does not fit the thing, or the thing that does not fit the word?
Territorialization is often found leaning on language and general concepts, and can as such hopefully provide consistency, directions and practical myths. But as artefacts of life these components of territorialization slowly drift away from the currents that shaped them and that put them into play. Heading for a ghostly existence as foreign language, pure aesthetic form and misguided attributions, they become non-territorial. Like sherry-glasses. The massive pile of inadequate words surrounding us is not really a mound of dead garbage, or, at least, if it consists of broken and discarded tools that have long since become relics, those relics are just waiting to bob back and accommodate your practical needs, or merely to interfere with you and be a burden. The same goes for your pragmatic, exalted and illuminating respective vocabularies, which even if they start by depositing you onto a clear blue sea soon might have you clogging up a sewer.
There is probably no pedagogy today that values the memorization of non-territorial signs more highly than the ability to make productive connections between signs and particularities of existence, to flip between semiotic registers. As non-territorial signs lose connections with the Real, their capacity to serve as hinges for articulations of mystical and transcendent qualities grows, and they attract projections of religious or bureaucratic feelings, or longings for a principal external backdrop of much larger duration that our lived fragments can fall back on and be explained by. In that case the generative void of the non-territorial sign fills in and tries to replace the generative void of non-territoriality inherent in the everyday mishmash of signals and semiosis that presents the complexities of the world. These trampolines for the imagination are not utilized to catapult oneself anywhere but away from the ground, to be suspended in levitation high up where the oxygen is low; and that thin air might provoke the most fanatical territorial claims. People are not likely to get out of the habits of sloppy generalizations, or of clinging to opaque and inexhaustible signs that have ascended to atopy. But on the other hand, and at the same time, they are not likely to cease with the habits of weaving their interactions and existential anchorings through the medium of objects, gestures, images and sounds, in embodied and semisomnambulistic symbolizations that works outside the realm of language. In the negotiations with the practical and social sides of Being, in coping with unknown and familiar horrors, imperatives and opportunities, objects get paired with all kinds of manners and intentions, and manners and intentions get paired with all kinds of objects. The objects are here components in processes of territorialization and semiotization, props whose meaning and function are determined exclusively within the performances they enter and modify. A non-territory before the act. In these processes, any meaning or function people (for example the creator) have previously attributed to the object is far less relevant than its material properties and the peculiar idiosyncratic associations and motor engrams it might catalyse in the current assemblage. With the exception of reliance on more or less informed stereotyped notions of the frames of reference that should be prevalent in a given demographic, there is no way to generally determine which aspects of the object will prove relevant for its inclusion in any of these potential use-cases. The variety in how people make use of and treat objects in their day-to-day activities – regardless of whether the behaviour can be said to be mainly culturally determined, dependent on some local or marginal sphere of influence, or stemming from an aptitude for free experimentation or a finely tuned sensibility – is an endless source of inspiration and curiosity. There sure is enjoyment to be drawn from the non-territorial.
Like getting glimpses of the processes into which your creations get inserted and in what way.
Creating works where the internal dynamic of the material makes its voice heard, where the life of materiality itself speaks and leaves its trail as a manifest. As opposed to making each example of an Idea appear identical, each glass in a series has an uncensored individuality that reflects the transcendental and stubborn properties of matter and the production-process.
Creating objects that are useful without giving any forceful indication of in what way. Even if the objects sometimes are created with a dedicated use in mind, that use is just one optimal route among perhaps several, and trekking along a sub-optimal path is no vice. Letting people discover their own uses is a much more satisfying scenario than being “understood”.

(April, 2020)

旅友達

今日は車通勤をやめて電車とバスを乗り継いでグスタブスベリにある工房に向かうことにした。いつもより片道50分も余分にかかるが、手があくので、本も読めるし、文章も書ける。私は小さい頃からどこに行くにもノートと鉛筆を必ず持ち合わせて、とりあえず思いついたアイデアを描いたり、計画を立てたり、街ゆく人の観察日記をつけたり、友達へ手紙を書いたりした。無駄に送られてくる私からの手紙に迷惑をこうむった友人は数知れず。今は、どうしても残さなくてはいけないものや、バスの乗車が長い時などはiPadと使い分けている。

ひとり旅では特に普段からの書き癖が爆発し、人目もはばからず暇さえあればいつでもどこでも書いている。空港での乗り継ぎは定番で、よく行く空港にはお決まりの「書くのに最適なスポット」を見つけてある。レストランでご飯を待つとき、歩き疲れて公園で、美術館でいかにも美術鑑賞しているかのように見せつつ、ホテルに帰ってからベッドに寝転んで。話し相手がいないので、ノートが友達と化す。喜んだり、怒ったり、後で読み返すとくだらなかったことが尚更くだらなくなって、無意味とはこういうことだな、としっかり感じられる。しかも、そのノート、誰かに向けて書いているらしい。友達にノートを見られてしまった時にそう言われ、はじめて気付かされて、無駄が丸出しにされた。今使っているノートがいつ終わってもいいように、次のノートを必ず旅先で買って帰る。その土地に良くあるスーパーマーケットで、なんて事ないけど、何かちょっとその土地の人が好きそうなものを選んでみる。

ちなみに、知らない土地に行くとそこに住んでいる人たちがどんな生活をしているのかが無性に気になって、ありとあらゆるスーパーマーケット、花や食料品や道具の並ぶ市場に行き、工事現場に遭遇すると嬉しくなる。その土地の食材や生活必需品、そこで働く様々な業種の作業着を見ては、その機能を想像し推測する。無意識だが、きっと私はその土地の人を観察するために旅で出ているのではないかと思う。そこの土地で選ぶノートは私の勝手な印象で決めるのだけれども、その前にきちんと人間観察日記を付けているので、意外と当たっているに違いない…かな。

その場の空気感に飲まれ、感銘を受け、うっかり買ってしまった彼らの必需品を帰宅後に後悔する事もよくある。セルビアで買ったトルココーヒー用豆ひきと沸かし専用の道具がつい最近の「感銘品」であるが、分かってはいても、今回は絶対大丈夫!となってしまう。その点、ノートには裏切りがない。うっかり感銘を受けても、観察が間違っていても、その旅の思い出となってそこに残るし、何しろたっぷり使い切れるのがいい。唯一の課題は、この溜まる一方のノートをどうするのか。かっこよく「ノートの数だけ旅がある」とか言っていられない現実もある。

(For 「MUJI to GO」 / Jannuray, 2019)